検地帳

 茨城大学附属図書館の所蔵する特殊資料の中にあるいくつかの近世地方(じかた)文書の 一つに、「鶴田家文書」がある。常陸国那珂郡上河内(かみがち)村(現水戸市内、那珂川の北岸) の鶴田家旧蔵の、約300点ほど(目録未刊)の名主文書であるが、すでに地方史編纂などにも利用 されている著名なものである。
 中でも、従来注目されてきたものに、文禄3(1594)年の、いわゆる太閤検地帳1冊がある。 天正18年(1590)年に関東・奥羽を制圧して全国統一を完成させた豊臣秀吉の、統一政権として の実質を固めるものが、画一的な原則によって順次実施された検地であったことは、歴史的事実 としてしられている。
 当時の北関東には、常陸国水戸城に佐竹氏があり、下野国宇都宮城に宇都宮氏、下総国結城城に 結城氏という、巨大な地方大名がおり、それぞれの居城を中心に、大きな力を持っていた。彼らが 秀吉に帰服し、秀吉も彼らを利用することで、北関東地方を実質的にも抑えることができたのである。
 常陸国のほぼ全域11郡と、下野国東端部及び奥州南部にわたる佐竹氏の領内で、秀吉側近の石田 三成を検地奉行として、その部下を各地に派遣して、佐竹氏が協力して行われたのが、文禄3年のこの 検地であった。これが、6尺3寸を1間、1間四方を1歩(坪)、30歩を1畝という、秀吉による 統一的単位に基いて行われ、田畑とその上・中・下・下々などの等級と、それぞれの1反あたりの 公定収穫量である斗代(とだい)を定め、1筆ごとの石高、すなわち分米(ぶまい)を計算し、村高を 定め、それに基い年貢が課せられることになった太閤検地(たいこうけんち)であり、のちの徳川幕府 時代に引き継がれる支配管理となった。
 表紙に「石田治部少輔奉行藤林三右衛門」とあり、1筆ごとに、上畠(じょうはた、等級と地種)、 所在の地字と縦と横の長さ、面積、分米(4斗8升は上畠1反1石の斗代で計算)、そして耕作者を記して いる。この地域最古の近世文書として、きわめて貴重なものである。
 (竪帳、タテ35センチ、ヨコ24センチ、表紙とも19丁、後年の改装表紙付)

解説:河内八郎 元人文学部教授(故人)
 

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